20世紀初頭、ヨーロッパの列強は二つの陣営に分かれて対立を深めていました。
1914年、バルカン半島での一発の銃声が、人類史上初の世界規模の戦争を引き起こします。
この記事では、大戦の原因から終結まで、そしてロシア革命がもたらした衝撃を見ていきましょう。
一人の皇太子の暗殺が、なぜヨーロッパ全体を巻き込む大戦争に発展してしまったのだろうか。「同盟」と「対立」の連鎖に注目して考えてみよう。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの列強は二つの陣営に分かれていきました。ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商です。この二極分化の背景には、ドイツの急速な工業化と海軍増強がありました。
ドイツのヴィルヘルム2世は、ビスマルクの外交路線を転換しました。ビスマルクがフランスの孤立化を図ったのに対し、ヴィルヘルム2世は世界政策を掲げ、海軍の大増強に乗り出します。これがイギリスとの建艦競争を招き、イギリスはフランス・ロシアとの協調に動きました。
ドイツ帝国最後の皇帝。ビスマルクを罷免して「世界政策」を推進し、海軍の大増強を進めました。これがイギリスとの対立を招き、三国協商の成立を促す結果となります。第一次世界大戦の敗北後、オランダに亡命しました。
バルカン半島は、オスマン帝国の衰退にともなって各民族が独立運動を展開していた地域です。ここにロシア(パン=スラヴ主義)とオーストリア(パン=ゲルマン主義)が介入し、利害が複雑に絡み合っていました。バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになります。
1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボで、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナント夫妻がセルビア人青年に暗殺されました。これがサラエボ事件です。オーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけ、宣戦布告しました。
ドイツはフランスとロシアの二正面作戦を避けるため、まずフランスを短期間で撃破し、その後ロシアに向かうという「シュリーフェン・プラン」を用意していました。このプランは、ロシアの動員が遅いことを前提に作られていたため、ロシアが動員令を出した瞬間にドイツも自動的に動かざるを得ない構造でした。軍事計画の硬直性が、外交的解決の余地を奪ったのです。
〈参照〉山川 P105-108、東書 P92-93
第一次世界大戦は「総力戦」と呼ばれます。それまでの戦争と何が違ったのだろうか。兵士だけでなく、国民全体の生活がどう変わったかに注目しよう。
開戦時、各国の指導者は「クリスマスまでには終わる」と楽観していました。しかし現実は違いました。西部戦線では、両軍が塹壕(ざんごう)を掘って向かい合い、膠着状態に陥ります。機関銃の火力が圧倒的に強く、攻撃側が突撃しても大量の犠牲者を出すだけでした。
膠着を打開するために新兵器が次々と投入されました。毒ガスは1915年にドイツが初めて本格使用し、戦車は1916年にイギリスが実戦に投入しました。飛行機は偵察から爆撃へと用途を広げ、潜水艦(Uボート)もドイツが大規模に使用しました。
第一次世界大戦は、史上初の総力戦となりました。戦争が長期化するなか、各国は総力戦体制を構築していきます。工場は軍需生産に転換され、食料は配給制となり、国民の生活全体が戦争のために統制されました。
特に重要な変化は、女性の社会進出です。男性が戦場に送られたことで、女性が工場労働や事務職など、それまで男性が占めていた職場に進出しました。この経験は、大戦後の女性参政権運動を大きく後押しすることになります。
日本は日英同盟を根拠に1914年8月に連合国側で参戦しました。ドイツが租借していた中国の山東半島や南洋諸島のドイツ領を占領します。
1915年1月、日本は中国の袁世凱政権に対し二十一カ条の要求を突きつけました。山東省のドイツ権益の継承、南満洲・東部内蒙古での権益拡大などを求めたもので、中国の主権を大きく侵害する内容でした。中国はこの要求を受け入れざるを得ませんでしたが、国民の強い反発を招き、後の五四運動につながっていきます。
1914年12月、西部戦線の一部で、敵対する英独両軍の兵士がクリスマスに自発的に休戦した出来事がありました。兵士たちは塹壕から出て、タバコやチョコレートを交換し、サッカーをしたとも伝えられています。しかしこのような人間的な交流は、戦争が長引くにつれて二度と起きなくなりました。総力戦は、敵を「人間」ではなく「倒すべき存在」として憎悪することを国民に求めたのです。
ヨーロッパが戦場となったことで、アジア市場から欧州勢力が後退しました。日本は軍需品や日用品の輸出を伸ばし、空前の好景気(大戦景気)を迎えます。船成金や鉄成金など「成金」と呼ばれる新興富裕層が出現し、百円札を燃やして足元を照らしたという逸話が生まれるほどでした。しかしこの好景気は大戦終結とともに急速にしぼんでいきます。
〈参照〉山川 P106-109、東書 P92-94
ロシアでは大戦中に二度の革命が起きました。なぜ戦争を続けながら革命が発生したのだろうか。「総力戦」の負担と関連づけて考えてみよう。
ロシアは三国協商の一員として参戦しましたが、工業力の不足から武器・弾薬の生産が追いつかず、前線では深刻な物資不足に陥りました。戦争の長期化は食料不足やインフレを引き起こし、国民の不満が高まっていきます。
1917年3月(ロシア暦2月)、首都ペトログラードで食料を求める民衆のデモが発生しました。軍隊が民衆側に寝返ったことで革命は成功し、ニコライ2世は退位を余儀なくされます。約300年続いたロマノフ朝が崩壊したのです。これが二月革命です。
二月革命後、臨時政府が成立しましたが、戦争の継続を主張したため国民の支持を失っていきました。一方、労働者・兵士の代表会議であるソヴィエトが各地に組織され、臨時政府と並立する二重権力状態が生まれました。
亡命先から帰国したレーニンは「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げ、ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の多数派)を率いて武装蜂起を起こしました。1917年11月(ロシア暦10月)、臨時政府を打倒し、世界初の社会主義政権が誕生します。これが十月革命です。
ロシア革命の指導者。マルクス主義を独自に発展させ、少数精鋭の革命家による前衛党がプロレタリア革命を指導するという理論を唱えました。十月革命後、「平和に関する布告」で即時停戦を呼びかけ、「土地に関する布告」で地主の土地を没収しました。
ソヴィエト政権は「平和に関する布告」で全交戦国に無併合・無賠償の即時講和を呼びかけました。しかし連合国はこれに応じず、ソヴィエト政権は1918年3月にドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、単独講和しました。ポーランド・バルト三国・ウクライナなどの広大な領土を失う、ロシアにとって非常に不利な条約でしたが、レーニンは革命を守るために屈辱的な条件を受け入れたのです。
労働者・農民の政府は、すべての交戦国の国民とその政府に対し、公正かつ民主的な講和のための交渉をただちに開始することを提案する。
ロシアではグレゴリオ暦(西暦)ではなく、ユリウス暦(旧暦)が使われていました。ユリウス暦は西暦より約13日遅れているため、ロシア暦の「2月」は西暦の「3月」にあたります。同様に「十月革命」も西暦では11月の出来事です。ソヴィエト政権は1918年にグレゴリオ暦に切り替えました。
〈参照〉山川 P109-110、東書 P94
1917年4月、アメリカが連合国側で参戦しました。その直接的なきっかけは、ドイツの無制限潜水艦作戦です。ドイツはイギリスへの物資輸送を断つため、敵味方を問わず商船を撃沈する方針をとり、アメリカの商船も被害を受けました。さらにドイツがメキシコに対米参戦を持ちかけた電報(ツィンメルマン電報)が暴露されたことで、アメリカの世論は参戦に傾きました。
圧倒的な工業力と兵力をもつアメリカの参戦は、戦局を決定的に変えました。疲弊した連合国に新たな物資と兵員が供給され、同盟国側は追い詰められていきます。
アメリカ第28代大統領。参戦にあたり「世界を民主主義にとって安全な場所にする」と演説しました。1918年1月に「十四カ条の平和原則」を発表し、秘密外交の廃止、民族自決、国際平和機構の設立などを提唱しました。
1918年秋、同盟国側は相次いで降伏していきます。ドイツではドイツ革命が発生し、ヴィルヘルム2世がオランダに亡命して帝政が崩壊しました。1918年11月11日に休戦協定が結ばれ、4年余りにわたった大戦は終結しました。
第一次世界大戦の結果、4つの帝国が崩壊しました。ロシア帝国(ロマノフ朝)・ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国です。大戦の死者は約1000万人に達し、人類はかつて経験したことのない規模の破壊を目の当たりにしました。
アメリカのウィルソン大統領は1918年1月、戦後の国際秩序の原則として十四カ条の平和原則を発表しました。秘密外交の廃止、海洋の自由、民族自決、そして国際平和機構(のちの国際連盟)の設立などが含まれていました。
ただし、民族自決の原則は主にヨーロッパに適用されたものであり、アジアやアフリカの植民地には適用されませんでした。この矛盾が、戦後の植民地における民族運動を刺激することになります。
ロシア帝国最後の皇帝。日露戦争(1904〜05年)の敗北や第一次ロシア革命(1905年)を経てもなお専制政治を続けました。第一次世界大戦中の二月革命で退位し、1918年に革命政権により家族とともに処刑されました。
ウィルソンの「民族自決」の原則は、ヨーロッパの被支配民族に独立の希望を与えました。ポーランド・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィアなどが新たに独立します。しかし朝鮮やインドなどアジアの植民地には適用されませんでした。朝鮮では1919年に三・一独立運動が、中国では五四運動が起こりますが、いずれも弾圧されます。「民族自決」はヨーロッパ限定の原則だったのです。
〈参照〉山川 P110-112、東書 P94-95
第一次世界大戦は、ヨーロッパを中心に戦われましたが、その影響は世界中に及びました。日本は戦場から遠く離れていましたが、参戦国として大きな恩恵と代償を受けています。
大戦中の日本は、ヨーロッパ列強がアジアから後退したことを好機ととらえ、中国への進出を強めました。しかしこの行動は、中国の民族意識を高め、アメリカとの関係を悪化させるという長期的な代償をともないました。また、ロシア革命の衝撃は日本にも及び、社会主義思想への関心が広がっていきます。
〈参照〉山川 P105-112、東書 P92-95
Q1. 第一次世界大戦前にヨーロッパの列強が形成した二つの軍事ブロックの名前を答えてください。
Q2. 第一次世界大戦のきっかけとなった事件の名前と、それが起きた年月を答えてください。
Q3. 総力戦体制のもとで起きた社会変化のうち、特に女性に関する変化を説明してください。
Q4. ロシアの二月革命と十月革命の違いを簡潔に説明してください。
Q5. 第一次世界大戦の結果、崩壊した4つの帝国の名前をすべて答えてください。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。基礎(A)から発展(C)まで段階的に取り組んでみてください。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
20世紀初頭、ヨーロッパの列強はドイツ・オーストリア・イタリアの( ア )と、イギリス・フランス・ロシアの( イ )に分かれて対立していた。1914年6月、( ウ )の首都サラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたことをきっかけに、第一次世界大戦が勃発した。日本は( エ )に基づいて連合国側で参戦し、1915年には中国に( オ )を突きつけた。
ア:三国同盟 イ:三国協商 ウ:ボスニア エ:日英同盟 オ:二十一カ条の要求
ドイツのヴィルヘルム2世の世界政策が列強の二極分化を招き、バルカン半島での対立が大戦の引き金となりました。日本は日英同盟を口実に参戦し、大戦中にアジアでの権益拡大を図りました。二十一カ条の要求は中国の主権を侵害するものであり、中国国民の強い反発を招きました。
次の文のうち、正しいものをすべて選べ。
①・③
②は誤り。レーニンは臨時政府を打倒して権力を握り、「平和に関する布告」で即時停戦を呼びかけました。戦争の継続を主張したのは臨時政府のほうです。④も誤り。ウィルソンの民族自決の原則は主にヨーロッパに適用され、アジアやアフリカの植民地には適用されませんでした。
次の史料は、1918年にアメリカのウィルソン大統領が発表した「十四カ条の平和原則」の一部である。これを読み、以下の問いに答えよ。
公開の平和条約が公開の場で締結されるべきであり、それ以後はいかなる種類の秘密の国際的取り決めも存在してはならない。
問1. この原則が掲げられた背景を、第一次世界大戦の外交的特徴に触れながら60字以内で説明せよ。
問2. この十四カ条の原則に含まれる「民族自決」には、どのような限界があったか。40字以内で述べよ。
問1. 大戦前の列強間の秘密条約が対立を深め戦争を招いたという反省から、秘密外交の廃止と公開外交の原則が掲げられた。(55字)
問2. 民族自決の原則はヨーロッパに限定され、アジア・アフリカの植民地には適用されなかった。(41字)
第一次世界大戦前、列強は秘密条約を通じて同盟関係を結び、それが連鎖的な開戦を招きました。ウィルソンはこの教訓から秘密外交の廃止を主張しました。一方、民族自決の原則はヨーロッパの旧帝国領に適用されたものの、アジア・アフリカの植民地には適用されず、植民地支配はそのまま継続されました。この矛盾が朝鮮の三・一独立運動や中国の五四運動を刺激しました。
ロシアで1917年に二つの革命が相次いで起きた原因を、「総力戦」「食料不足」「臨時政府」の3つの語句を用いて80字以内で説明せよ。
総力戦の負担で食料不足が深刻化し、二月革命でロマノフ朝が崩壊した。その後、臨時政府が戦争継続を主張して民衆の支持を失い、十月革命が起きた。(69字)
ロシアでは総力戦による経済的負担が国民生活を直撃し、食料不足と物価高騰が革命の土壌をつくりました。二月革命後の臨時政府は戦争を継続する方針をとったため、「パン・平和・土地」を求める民衆の支持はレーニン率いるボリシェヴィキに集まり、十月革命による政権交代が実現しました。
第一次世界大戦における「総力戦」は、それまでの戦争とどのように異なり、戦後の社会にどのような変化をもたらしたか。政治・経済・社会の各側面に触れながら200字以内で論述せよ。
総力戦とは、軍隊だけでなく国民全体と国家の経済力を動員する戦争形態である。政治面では、戦争遂行のために国家が国民生活を広く統制するようになり、戦後も政府の役割が拡大した。経済面では、工場が軍需生産に転換され、国家による経済統制の手法が確立した。社会面では、男性に代わり女性が工場や職場に進出し、この経験が戦後の女性参政権の獲得を後押しした。総力戦は国民の政治参加を拡大させ、大衆社会の形成を促進した。(196字)
この問題のポイントは、総力戦を「戦争の方法」としてだけでなく、「社会変革の契機」として捉えることです。国家が国民を動員した以上、戦後に国民が政治的権利を要求するのは当然の帰結でした。特に女性の社会進出と参政権の関係は、総力戦がもたらした最も重要な社会変化の一つとして頻出のテーマです。